「岡潤一郎 嫁さん」と検索する人の多くは、きっとどこかでこう思っているはずです。
あのまま生きていたら、どんな家庭を築いていたのだろう。どんな笑顔で、どんな相手と並んでいたのだろう、と。
はっきりしている事実は一つだけです。岡潤一郎さんには、嫁さんはいませんでした。
24歳という若さで、結婚という節目を迎える前に旅立ってしまったからです。それでも、彼の人生をたどっていくと、「嫁さん」という言葉では収まりきらないほどの、人への愛情や、愛された証がそこかしこに残っています。
岡潤一郎 嫁さんはいなかったと知ったとき、なぜこんなに胸が痛むのか
岡潤一郎さんは1968年12月7日、北海道様似町に生まれました。1988年に騎手としてデビューし、わずか5年ほどの騎手人生で225勝。新人賞も獲得し、「武豊のライバルになり得た男」とまで言われた存在です。
しかし1993年1月、京都競馬場での落馬事故により重体となり、2月16日、24歳の若さで帰らぬ人となりました。その短い人生の中で、彼は結婚という選択をする暇もないほど、全身全霊で“馬と競馬”へ自分の時間を捧げていたのだと感じさせられます。
だからこそ、「嫁さんはいなかった」と知ると、どこか取り返しのつかない喪失感が心に残ります。彼がもし30代、40代と歳を重ね、誰かと笑い合う未来を歩めていたなら…と、つい「もしも」を想像してしまうのです。
どんな人と結婚していたのだろう?想像したくなるほどの人柄とは
岡潤一郎さんを知る人たちが、口を揃えて語る言葉があります。
「あれだけ好かれた騎手はいなかった」
厩舎の人間、同僚騎手、調教師、そしてファン。立場を問わず、彼の周りにはいつも人が集まっていました。豪快に笑う姿、馬のことを真剣に語る姿、時に照れくさそうに冗談を飛ばす姿。そのすべてが、人を惹きつける魅力に溢れていたのでしょう。
そんな彼が結婚していたとしたら、きっと相手は「一緒に笑って、支え合える人」。勝った日も、負けた日も、ときに落ち込む日も、黙って背中を押してくれるような、あたたかい人だったのではないかと想像してしまいます。
嫁さんはいないけれど…仲間たちが用意した“もう一つの席”
岡潤一郎さんが亡くなってから1年後。競馬学校の同期である騎手の結婚式が行われました。その披露宴の会場には、出席するはずのない“ひとつの席”が用意されていたといいます。
そこには、岡潤一郎さんの名前が書かれた席札。
同期たちは「ジュンペーもここにいるはずだった」と、当然のように1席分を空けていたのです。嫁さんと一緒に出席する未来は叶わなかったけれど、「友として並んでいてほしい」という仲間の気持ちが、その席に込められていました。
結婚式で「家族になる二人」を祝福する空間に、すでにこの世にいない友のための席がある。そこには血の縁を超えた、もうひとつの“家族”の形が見えます。
恋人や嫁さんの代わりに、彼が生涯愛し続けたものとは何か
岡潤一郎さんが誰かにプロポーズをする未来は訪れませんでしたが、その代わりと言っていいほど、彼はあるものに夢中でした。
それは、馬と競馬そのものです。
デビュー年に44勝を挙げ新人賞を獲得し、翌年も勝ち星を積み重ね、NHK杯で重賞初制覇。宝塚記念では、あのオグリキャップの手綱を託されます。エリザベス女王杯ではリンデンリリーでGI制覇。その後、愛馬が故障で姿を消すなか、一人で表彰台に立ったエピソードは、今も多くのファンの胸に残っています。
彼の一日一日は、恋人や嫁さんとの時間ではなく、「馬との時間」で埋め尽くされていました。早朝の調教からレース、厳しい減量、そしてまた翌日のための準備。普通の24歳が経験するであろう学生生活や恋愛の多くを、彼は“馬の背中の上”に置き換えて生きたのだと思うと、そのひたむきさに胸が熱くなります。
もし嫁さんがいたら…武豊や仲間たちが見た“未来の岡潤一郎”
騎手の世界では、30代、40代になってからGⅠを積み重ねる例も珍しくありません。24歳でGIを一つ獲り、既に重賞もいくつも勝っていた岡潤一郎さんが、もし無事にキャリアを重ねていたら。武豊騎手と“タイトルを奪い合うライバル関係”になっていたかもしれません。
そして、競馬場に家族を連れてきて、「あれがパパだよ」と指さす日も、きっと来ていたはずです。
勝ったレースのあと、家族席に手を振る岡潤一郎さん。インタビューで「今日は子どもの前で格好つけられて良かったです」と笑う姿。そんな光景を、誰もが心のどこかで思い描いています。
その“もしも”が現実にならなかったからこそ、今もファンは「嫁さん」「家族」という言葉で、彼の人生の続きを探してしまうのかもしれません。
嫁さんではなく“弟子”に託された想いと形見のムチ
岡潤一郎さんの突然の死は、彼を育てた安藤正敏調教師にも大きな衝撃を与えました。安藤厩舎には、後に川島信二騎手が所属します。安藤調教師は川島騎手に、岡潤一郎さんの形見であるムチを託しました。
「彼のような騎手になれ」
そう言って渡されたムチを使って、川島騎手は自身の初勝利を挙げています。今もそのムチは“お守り”として大事に保管されていると言います。
本来なら、嫁さんや子どもに渡されたかもしれない“彼の遺したもの”は、こうして「弟子」へと受け継がれました。血のつながりではないけれど、意志と夢を継いだ“もう一つの家族の形”が、そこには確かに存在していたのです。
岡潤一郎 嫁さんはいなかった。それでも彼は一人ではなかった
告別式は競馬ファンにも開放され、多くの人が会場に足を運びました。遺影の前には花が山のように積まれ、その中にはファンからの手紙もあったと言います。
「もっと乗っているところを見たかった」
「あなたの馬券で夢を見せてもらいました」
血のつながりも、婚姻の届出もなくとも、岡潤一郎さんは、確かにたくさんの人の“人生の一部”になっていました。
嫁さんという存在は最後まで現れなかったかもしれません。それでも彼は、仲間に愛され、ファンに支えられ、師匠に期待され、後輩から憧れられる――そんな大きな「輪」の中で生きていたのです。
まとめ
岡潤一郎さんには、公式な意味での「嫁さん」はいませんでした。24歳という若さで、結婚という人生の大きな節目を迎える前に、この世を去ってしまったからです。
それでも彼の周りには、家族同然の仲間やファン、師匠、後輩たちがいました。同期の結婚式で用意された“彼のための席”、弟子に託された形見のムチ、今も語り継がれる数々の名レース。その一つ一つが、岡潤一郎さんが決して「一人」ではなかったことを教えてくれます。
「岡潤一郎 嫁さん」という検索の裏側には、「もし生きていたなら、どれほど幸せな人生を歩んでいただろう」という、ファンの切ない願いが滲んでいます。その“もしも”が叶わなかった分だけ、私たちはこれからも、彼が全力で駆け抜けた24年と、5年余りの騎手人生を忘れずに心に刻み続けていく必要があるのだと感じさせられます。


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